「大丈夫、アルミン。大丈夫だから…」
「うっ…ガハッ」
涙を流して嘔吐するアルミンの背に手を伸ばし、ユーリはその手を止めた。今彼の肩を抱くと、血がついてしまう。――ユーリが殺した人間の、血が。
拳を握り、アルミンに血がつかないように、彼から見えないように気をつけながらそっと肩を触れ合わせる。
「うっ…」
「…アルミン」
「僕…うっゲホッ…」
再度胃の中身を吐き出したアルミンに、泣きたくなる。アルミンを含め、新兵たちに腹をくくれと言った。そうしなければ生き残れないから。仲間を守れないから。
それをアルミンはきちんと理解していた。だからこそあの時引き金を引いたのだ。そうでなければ、ジャンが死んでしまうから。
けれど、結果として今こうして苦しんでいる。
……自分が、代わりにできれば良かったのに。
「アルミン、一緒にいるから。私は何があっても、あなたが何であっても、あなたの味方だから」
「っ…姉さん、は」
「うん」
「人を…殺すのは、初めてじゃないの…?」
「……違うよ。辛いよね。受け入れられないよね…」
「う…うぅ…僕…ウッ…」
「大丈夫…楽になるまで吐いて、泣いていいんだよ」
「っ…ぅ……」
「あなたが生きていて、――死ななくて、良かった」
「アルミン!」
やってきたミカサを見て、ユーリは微笑んだ。
「ミカサ」
「ユーリ。その…アルミンは…」
俯く彼と、その目の前にある吐瀉物に目を向けて、ミカサは眉を下げた。
「少し、ついていてもらっていい? 私、水を汲んでくるから」
「…わかった」
頷いたミカサと、アルミンに背を向けてユーリは井戸へと向かう。
己の手についていた血を流す。それからカップに水を汲んだ。
戻ってミカサと代わる。
しばらくして、いくらか落ち着いたらしいアルミンは水を飲み、口を拭った。
「……ごめん、大丈夫、姉さん。…ごめん」
「謝らなくていいよ。ふたりきりの姉弟でしょ。…そろそろ食事の時間だと思うけど、食べられそう?」
「…うん」
「良かった。どうせディナーは野戦糧食がメインだけど…でもあれも結構美味しいから良いよね」
「……そう言ってるのは姉さんだけだと思うよ」
「え、嘘」
***
野戦糧食を受け取り、サシャの元へと向かう。
「サシャ~、少し早いけど、見張り代わるよ。今日、すごく疲れたでしょ。ご飯ゆっくり食べておいで」
「あっ、はい! …ありがとうございます」
「いえいえ」
サシャを見送り、小屋に背をもたれる。
バタンと戸が閉じる音を聞き、ユーリはゆっくりと息を吐いた。拳を作ってはさする。
――斬った感触が、消えない。
じわりと涙が浮かび、身体がガタガタと震えた。
人死にを、アルミンが人を殺す瞬間を見た新兵たちは気落ちしている。本当は彼らの雰囲気を少しでも良くできるように動くべきだとは思うのだけれど、今の心持ちでは難しそうだった。
だから、見張りを代わるという名目で、ひとりになったのだ。
アルミンに言ったことは、半分嘘だった。人を殺したこと。あるといえば、ある。これまでに何度も、味方を見捨ててきた。仲間を、見殺しにしてきた。けれど、自分が手を下したのは、初めてだった。
覚悟はしていたのに。リヴァイにも意志を確認されて、大丈夫だと答えていたのに。
それでも。
肉を断つ感触、付着した血潮の生温かさ、……口から漏れ出た息に、恐怖と苦痛で歪んだ表情。
「っ…、……」
深呼吸をして、唇を噛む。
小屋の中からは、アルミンたちの会話が聞こえてくる。アルミンの苦悩、リヴァイの言葉、ジャンの懺悔。
ほうと息を吐く。
自分の好きな人は、本当に強くて誠実な人だ。
嗚咽を飲み込んで、目を閉じた。
木々のさざめきと、馬が息を吐き、足を踏み鳴らす音。小屋の中から聞こえる炎の爆ぜる音と、人の動く音。
キィと戸が鳴り、ザクザクと野草が踏まれるのがわかった。
――交代にはまだ早いはずだけれど。
「見張り中に寝るとはいい度胸だな」
「…耳は澄ましているので大丈夫ですよ、兵長」
ふにゃりと笑って答えれば、ぐいと身体を引かれる。
「ユーリ」
大好きな人の温もりと香り、何よりその優しい声に、引っ込んだはずの涙がまた浮かぶ。
「っ……」
「……」
そっと頭にキスをされる。拍子に零れた涙をリヴァイの指が掬った。
「っ…、っ」
小屋の中に声は簡単に聞こえてしまうから、無言で抱きしめてくれる。言わずともわかってくれる、その優しさに縋ってしまう。支えたいと思っているのに、支えてもらってばっかりだ。
*
リヴァイの背に手を回してしばらく経った頃、ようやく身体の震えが収まってくる。ぽんぽんと背中を宥めるように叩かれる。
「飯はちゃんと食え、保たねぇぞ」
「……はい」
「どうせお前は野戦糧食も美味いと思ってんだろ」
「兵長は違うんですか?」
「あれを美味いというのはお前以外じゃネズミくらいだ」
仮にも恋人をネズミと並列に語るのはいかがなものだろうか。ユーリは小さく口を尖らせた。
「……そこまでの表現じゃないですけど、アルミンにも言われました」
「エレンもミカサも同じ意見だろうよ」
「ううん、不思議です」
「お前は食事にだけは困ることはないだろうな」
はぁと嘆息するリヴァイを見上げる。頬に保護材を貼っている彼に、ユーリは眉を下げた。そこ以外にも、数箇所怪我を負っていたはずだ。
「兵長、お怪我の具合はどうですか」
「かすり傷だ。少しばかり跡は残るだろうが、動きに支障も出ない」
「……生きていて、良かったです」
「……あぁ」
リヴァイと共にいた3人は死んだという。ハンジ班の面々だ。2年前、ユーリが所属していた班の、仲間たち。
「……ニファさんたちの、遺体は…」
「…置いてきたが、街中だからな。俺たちが勝てば遺族に返せるだろうし、負ければ俺たちと同じように処理されるだろう」
「……はい」
誇り高き兵士か、謀反を企んだ犯罪者か。死んだ仲間の在り方すら、この戦の結果にかかっている。負けられないのだ。ひとつひとつ、心臓が積み重ねられている。
「明日からも…生きましょう。殺されないために、殺させないために、仲間と自由のために、私はなんでもします」
「……あぁ、ユーリ」
「はい」
「絶対に死ぬなよ」
強い瞳で言われた言葉に、ユーリは微笑んだ。
「兵長も、強いからって油断しないでくださいね」
「誰に言ってる」
「人類最強の兵士長様、です」
そう言って、耳元に口を寄せる。
「そして、愛する恋人です」
「…そうだな」
顎を掬われて唇が重ねられる。
何を言っても、どう注意しても、どんな行動をしても、明日も生き延びる保証などない。だからこれは、願いなのだ。
愛する人たちが、自分が、無事に生きていられますように。